棟方志功



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棟方志功は、福光に疎開した6年8ヶ月に様々な人に会いました。
そして、その後も福光に来て新しい出会いをたくさんしたそうです。
棟方志功を使えるのは、やはり人の声。 福光美術館の館長補佐を勤めている尾山さんは実際に棟方とあった事がある1人。 その彼自身も、棟方志功を知る人の声を独自で集めていらっしゃいます。尾山さんのご協力も得てたくさんの声を集めました。
尾山 章さん (福光美術館学芸員)
小学校1年の頃、父に連れられ初めて棟方志功にあった時の印象は「声の大きな先生だなー」ということでした。 当時、棟方が住んでいた「鯉雨画斎」の辺りは田園が広がり、あぜ道を歩いていった記憶がある。
自分も版画をするようになり「なるほど棟方先生は偉大だな」と改めて思うようになったという。 そんな経緯もあり、美術館の仕事の合間、棟方志功のことを独自で調べている。

棟方志功のつながり
父が面識があった関係で、小学校の頃棟方の家を訪れる。また、学校でのつながりもある。
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棟方 令明さん (棟方板画美術館館長・志功次男)
棟方志功を版画家という目でなく、棟方志功の全体の世界を見てほしい。 版画も油絵も書も、仕事というより楽しんでやっていた。
父は子供の絵を見てあげるとこにも、ここが悪いとは決して言わなかった。 ここが良いとほめるので、子供には楽しい思いしかなく、意欲を高くさせるのがうまかった。 私も同じで、やりたいことはなんでもさせてくれた。 それは、自分がやりたいことをやっているからかもしれないが、その分、母がやめなさいといってバランスを保っていたのだと思う。

棟方志功のつながり
棟方志功の次男。棟方板画美術館の館長をしている。
子供の頃、志功と共に福光に疎開していた。
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表 立雲さん (当時小学校教諭・元校長・書家)
福光にすごい人がいるというので、会いに行ったのがはじまり。 棟方志功は私より20歳以上年が上だったが、それを感じさせないお付き合いをしてくださった。
棟方志功の書は、福光の界隈で受けた影響がでているのだろうと感じる。 小学生、中学生が大人顔負けの書を書く、それに棟方志功が触発されて、棟方の書ができていったのだろうが、 その子ども達の書に触発されるという志功自身がすごいと感じる。

棟方志功のつながり
書を通して棟方志功と付き合いをもつ。棟方志功のうわさを聞き、表さんが単身志功に会いに行った。
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井沢 裕さん (棟方令明氏の同級生・町議)
学校の写生会などで、棟方志功が1人1人の作品を大きな声で「これは心が伝わってくる」など批評してくれる。 子供心に画伯からそう言われるとその気になってしまって絵を好きになった人が同級生に何人もいた。
棟方志功は、1人1人ほんとうに丁寧に批評してくださる方だった。

棟方志功のつながり
棟方志功の次男、令明さんと同級生だったことから自宅へ遊びに行った時にあったりしていた。
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土居 邦雄さん (志功の家「鯉雨画斎」元持ち主)
女医の松井先生が棟方先生が東京に帰られるので家を買い求めないかとの話しがあった。 東京からの疎開の棟方家と私の家も神戸からの疎開ということもあり、母親同士とても中がよくなり、 とんとん話しに家を譲ってもらうことになった。 今の愛染苑のところに家があったが、一時天神町にそのまま移動することになったが、現在町の方の協力で現在愛染苑の前に戻ってきた。

棟方志功のつながり
チヤ婦人と母親がとても中が良かったという。棟方志功が福光時代に住んでいた家「鯉雨画斎」の持ち主。
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勝山 栄さん (介護老人ホーム会長)
ほんとうに何にでも描きたがる時期がちょこちょこあったように思う。 障子などは張り替えてまた絵を描いて…というような事があった。
家に遊びに行くと便所にも、仏様が書いてあって最初はなかなかできないものだった…(苦笑)

棟方志功のつながり
棟方志功の家に遊びにいったりというお付き合いをしていた。
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尾山 外譽治さん (福光の美術作家、尾山章さんの父)
棟方志功と町の美術作家が共に展覧会を開催した時のことと思われる。 ポスターを描いているのを見て、志功はデザイナーに転身したいと溝差し (定規の目盛の上に溝が付いていて、筆とガラス棒を片手にもって、その溝にガラス棒を差し込んで文字を書くこと)の練習から始めた。 しかし強度の近視と不器用さから諦めてしまったが、結果として「世界のムナカタ」になった。

棟方志功のつながり
同じ福光の美術作家ということで面識があり棟方の家にも何度か足を運んでいる。


石崎 俊彦さん (元福光図書館長)
志功さんの尽力で来客の方々の講演会、座談会、音楽会、展覧会等数々の催物を持てた。 敗戦のショックと空白の時代にどれほど潤ったことか…。 鯉雨画斎のアトリエは狭かったので、大作の制作には寺院、学校に場を移していたものです。
「よく棟方さんが物々交換により絵を渡していた」と言う人がいるが、棟方さんに失礼だ。 「物を頂いたから絵を差し上げているのだから」と石崎さんは強調する。

棟方志功のつながり
石崎氏は棟方疎開当初からお世話された方。
棟方は昭和21年12月に家を新築し、愛染苑(鯉雨画斎)と呼んでいるが、石崎氏の土地を貸して建てられている。 棟方が家を去って後、購入された方が近くの土地へ移され、 家が建ち並んだため、元の土地の向いまで大きなクレーンで移動し、現在鯉雨画斎として公開している。


吉崎さん
志功が疎開で訪れた際、石崎俊彦氏、高坂貫昭氏と共に福光駅から我が家へ立ち寄られ、光徳寺へ行かれました。 その時、我が家の玄関で隅の板につくように遠慮して立っておられ、その服装は、首から数珠を数本かけていました。 くたびれた絣の筒袖にもんぺ姿、顔は分厚い黒縁眼鏡にモジャモジャ頭。 その姿は福光の人には異様に感じたのではないでしょうか。
志功が石崎俊彦氏と共に歩いてきて、すれ違って20mも歩いた後、石崎氏に「吉崎さんだった」と告げられ、 志功は目が悪くてわからなかったようで、走ってきて挨拶をしなおした事がありました。
能登へ言った時、志功は砂に絵を描き、波に流されるのを子供みたいに無邪気に喜んでいました。
鎌倉へ郵便配達が来た時、よく来てくれたと最敬礼していました。

棟方志功のつながり
父親が、棟方巴里爾(長男)にバイオリンを教え、 遥子さんは、けようさん、ちよゑさんの棟方姉妹にはピアノを教えた。 棟方志功は芸は芸で返すと月謝代を棟方作品で返していた。


桃野 八郎さん
棟方さんが郵便ハガキを持って北陸銀行前のポストの前で読み返えすの見て、 1時間後に戻ってきたら、読んだ後投函せずに帰られたと前田さんから聞いた。
それ程までにこだわる方であった。


金守 世士夫さん (版画家)
伏木町の生家に身を寄せていた頃、新聞の記事で2人の有名な版画家が県内に疎開していることを知り、それぞれに手紙を送りました。 石版家の織田一磨(福野町疎開)と棟方志功。しかし返事があったのは棟方先生だけでした。
7月17日なら1日家にいるからと返事が来たので、早速福光の棟方宅(荒町の舟岡家を借りていた頃)へ伺いました。 棟方は高岡市の富山新聞社の画廊で第1回日本芸業院展(13日から16日まで)を開いた後でした。
棟方は「私の生活を見ろ」と言われたので、以降たびたび棟方家を訪れ、泊まり込んだことも時々ありました。 あるとき蒲団から起き出してもぐり込んだまま油絵を手直し始め、見ていると、絵筆を蒲団でふき取ったりしていました。 これは奥さんに叱られるぞと思ったものです。

棟方志功のつながり
昭和21年(25歳のとき)中国から復員後、当時福光町に疎開していた棟方志功に師事した。


勝山 栄さん
福光時代に棟方家へ伺った時、奥さんに見られないようにこそり、早く早くと作品を渡してくれたことがありました。
棟方の最晩年(昭和50年)に東京の自宅で、歩けなくなった先生を支えたり、おぶったりして階段を登り降りしたものです。

棟方志功のつながり
福野高校在学の時からの付き合い。棟方は学校へ美術の指導に見えていた。


吉田 桂介さん (桂樹舎)
棟方は薄手のコウゾ紙を使用していた。黒いパリパリの紙だった。「鐘溪頌」は五箇山の和紙ではない。 五箇山の和紙は白いから、この周辺の栴壇山か庄川沿線でもダムの向う側又は長州紙などの薄紙であったらしい。 中国の画仙紙も使っていた。パルプは好まなかった。
10月26日八尾より帰宅。 八尾で小さな小さな民藝展が開催され、柳宗悦先生の講演会も催され、卯の花村の日本画家谷井三郎氏宅で柳、棟方とも泊まっていた。

棟方志功のつながり
昭和23〜24年頃から八尾の吉田さんの紙を使用している。透かしの入った棟方志功専用のMS紙も吉田さんが作っている。 昭和11年に民藝運動の提唱者の柳宗悦がつくった雑誌「工藝」で初めて棟方を知る。 昭和23年〜24年頃棟方を訪ね、版画にいい紙ができると、幾度となく棟方に届けた。 「版画にいい紙」とは、薄く、色のにじみが良く、裏彩色に都合の良い紙のことである。


舟岡 喜一郎さん
光徳寺は町から離れていので不便だから、私の弟の家を貸せということだった。 私の弟は応召病死して、子供3人とその母親だけであった。 私は先生に、絶対に落書しないこと、という条件を出した。 先生曰く、「障子は時々張りかえるから障子なら良いでしょう」 いや、それも駄目、ということで話が決まり、昭和20年12月から昭和21年12月までな滞在1年余りの間、落書は1つもなかった。 このことは新家屋を見ても分かり、大いに落書をして戴いた方がよかったと後悔しております。

「棟方志功全集12 雑華の柵」より抜粋

棟方志功のつながり
約1年棟方に弟の家を貸していた。


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